2015年2月28日土曜日

昨日の気になった記事〜自分ばかり我慢してると感じてる人へ〜言葉の使い方処方箋〜

いっつもそうだ。
自分ばっかり頑張っている。

いつもいつも自分だけが我慢して
周りは自分よりも頑張っていないくせにすぐに弱音を吐く。

本当のこと言うと
自分だって弱音聞いてほしいのに。

けど、同情は嫌だ。
きちんと伝えたいこと伝えたい。

気づいたこと。
それは伝え方だった。

正しく伝えようとするから
言いたいことも言えなくてストレスがたまる。
逆に
してほしいこと、自分がどう感じたか
そういう視点を大事にすれば伝えられる

どうしていつも孤独になっていくのだろう。
どうしていつも自分は理解されないのだろう。

そうして
前は大嫌いだった
「すぐに感情を出す人間」
をよく観察してみる。

そうすると
こんな言い方が多いことに気づく。
「嬉しいです」
「助かります」
「嫌ですね(笑)」
「辛いです」
「〜してほしいです」


自分にとってこんなことを言うのは非常識だ。
だって嬉しいとか悲しいとか嫌だとかしてほしいとか
そんなことは弱いものが言うことだ。
こんなやつは仕事をしても
きちんとした仕事ができないだろう。
そんな風に思っていた。

けど、実際に自分が言われると
やっぱりどこか心を動かされる言葉なのは事実だ。

自分にとっては苦渋の決断だ。
強い自分を捨てて
およそ真逆にあるような発言をすること。
屈辱にも近かった。

しかしどうだろう。
意識して言ううちに少しずつ効果が表れ始めた。

実は正しさは誰も動かさない。
感情が何も反応しないからだ。

人が動くには感情が動く必要がある。
そこで必要なのは
「正しさ」ではなく「具体的な誰か」だ。
誰かのために、人は動く


自分はここを勘違いして
正しいことを言えば人は動くと思っていた

正しさを表す発言と
具体的な「誰か」がいる発言とは
どういうものなのか。

具体的な誰かがいる発言とは
「誰かの気持ちが入っている」発言。
逆に
正しさを表す発言とは「誰もいない」発言。


具体的な誰かがいる発言を見てみると

「時間守ってくれると私すごく助かります。嬉しいです」
「遅刻されると私の予定がちょっと変わってしまいます」
「私はもっと気持ちを考えて言ってほしいんです」

これを見て「弱い」と感じたら立派な正しさを持った人間。


しかし、これを言われたら多くの人の気持ちが動く。

どうしてか。
その理由はここには「誰か」がいるから。
特に上に上げた発言には「私」がいる。
私がどう思うか。
私がどうして欲しいか。
そういう「私」という「具体的な誰か」からの視点で
評価したりお願いしたりする。


そうすると議論のしようがない。
だって、少なくとも
「私」は嬉しかったり悲しかったりしているのは事実なのだから。
その気持ちはダイレクトに相手に届く。
そこに正しいも間違っているも議論する余地はない。

それに対して
誰もいない発言を見る。
先にあげた例だ。
「時間をしっかり守ってください」
「資料の体裁はこうしたほうが良いです」
「どうして返信を早く返せないんですか」


その言葉の中には「誰もいない」。
それもそのはず。
「正しさ」とは誰かの視点を
できる限り挟んではいけない。
誰にとっても納得させることができるように。
だからこそ議論の余地がある。

しかし、例のような発言の裏には
困っている自分がいるのは確実。
それを色んな理由で隠している。

正しさを装うから人には届かない。
けど、本当は自分の気持ちが隠れている。
そういうジレンマでぼくは少しずつ少しずつ傷ついていた。






「困ります」
「嬉しいです」
「弱ったな」
「やった!」
「してほしいんです」

自分をむき出しにして発言する。
最初はかっこわるいと思ってなかなかできない。

けどこんな風に思う。
大事なのはかっこ悪いどうこうではない。
相手が自分のことを考えて行動してくれるかどうかだ。
動いてくれることこそ大事なんだ。

少しずつ少しずつ踏み出してみる。
言葉の中に「私」がいるように。

意識すること
・ 私も感情を表に出す人間が苦手であった。しかし、「正しさ」で人は動くのではなく「誰かのため」に人は動く。注意するときも「私の感情」を入れてみる。

0 件のコメント: